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昔 東京で おばけ煙突と呼ばれる煙突があった
 山手線と中央線と東武線と京成線とあらわれ 下町のシンボルとして 愛された"おばけ"らしい
4本、3本、2本、1本・・・・・・・旧日光街道の西約1KM  千住桜木と云うところにいたらしい
オバケエントツ 3年6組 笠井五郎
千住の名所と聞けば、年寄りから幼い子まで、オバケエントツと、答える。
この代名詞、且つ、スター的存在であるオバケエントツは、千住の目標でもあり、また掲示板でもある。東京タワーや、デパートの屋上から四方を見渡すと、必ず、オバケエントツが見える。その時は、ああ、あそこが僕達のまちかと、なつかしいいというか、なんともいえない感じが、こみあげてくる。
オバケエントツは、千住のタワーだ。ぼく達千住のものには、このオバケエントツがぼく達の町にあるのだという誇りをもっている。それもただデッカイかららという意味ではなく、東京都で一番古い発電所、戦前、外国人の設計技師が建てたので、空襲の時にオバケエントツだけは、爆撃しなかったという うわさがあったとか、また、そのほかいろいろな話題を持っているからだ。
いや、この オバケエントツは、東京都全体で誇っていいものだ。それも 日本全国に、いや世界に・・・・

ぼく達は、オバケエントツに、この外のことで特にお世話になている。その中の一つは、まず、ぼく達の心の支えになってくれるということだ。あの夏の恐ろしい台風、そして雷、このとき程、ぼく達がハラハラすることはない。いつ川が氾濫しやしないか、いつ家に落雷しやしまいかと一晩中このことを考えると、まるで気が狂いそうになる。しかし、そのとき、オバケエントツのことを思い出し、マブタを閉じてその雄大スケールを再現すると、ぼく達は 自然と、自分の家、いや千住の町全体を台風から、雷やから守ってくれているのだという心強い気持ちになる。
ハラハラしていた胸もおちついて晴れ晴れとなり、その上笑いまで浮かんでくるのだ。この外にも学校の夏休み、冬休みの図画の宿題というと、必ずオバケエントツをかいてくる。僕たちは生まれて15年、オバケエントツをかき続けてきたといっても言い過ぎではないだろう。

このようにオバケエントツの功績は大きい。これは火力発電所というより、ぼく達千住の人のシンボルトいった方がピッタリするぐらいだ。しかし、この千住のシンボル・オバケエントツも近いうちにその長い生涯を閉じる。ぼく達はこのことを喜んでいいのか、悲しんでいいのか迷う。オバケエントツがなくなっても、この発電所の設備が新しくなり文化、工業の発達の面から見ると、このオバケエントツがなくなっても、発電所の設備が改良され、もっと新しい機械で沢山の電気が作り出せるようになるなら、喜ばしいことだが、今まで千住のシンボルとして親しまれてきたオバケエントツの名を、もう聞けなくなるかと思おうと寂しい。最後に僕は、オバケエントツ君。本当に長い間有難うと心からお礼をいいたい
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資料提供 東京電力足立支社様

おばけ煙突 (四本煙突)
”おばけ煙突” 由来が2説

①建設当初、時々思い出したように煙を吐く煙突をみて、いつしか近所の人々がつけたのが”おばけ煙突”のそもそもの由来だといわれる。

②見る角度によって、1本から4本まで見えることから、”おばけ煙突”の名が広まり「煙突の見える場所」という映画にも登場して全国に紹介された。


東京電力千住火力発電所

場所:足立区千住桜木町35番地
建設:1925年 大正15年1月
廃止:1964年 昭和39年2月

東京電灯株式会社
昭和14年4月に、日本発送電株式会社に編入
昭和26年5月東京電力株式会社に所属

認可出力:77.500KW
1号機=25.000KW(大正15年1月)
2号機=25.000KW
3号機=25.000KW
所内機=2.500KW
燃料 =石炭
熱効率=約16~17%


当初は、電気のたりない時の予備的な火力でしたが、戦時中から常時発電する火力発電所となり、火力発電を行うと共に系統電圧の調整にも重要な役割を果たす。昭和28年11月、長年にわたる酷使と施設の老朽化および炭質低下等により、認可出力の確保が困難になったため、ボイラーの1缶を重油専焼に改造。その後豊洲埠頭に大きな火力発電所が作られとりこわされました

発電所が千住に決まるまで

最初の計画では、浅草発電所を設備更新する予定でしたが、関東大震災後、送電系統と距離はあるが石炭運搬は良い、又大正期まで閉疎な地であったということの理由があったためといわれています


今に残る物
昭和39年(1964年)に廃止。設備撤去後、東京電力足立支社の「千住資材センター」(煙突跡には 黄色のマークがあります北千住変電所・千住グランド等になりました。煙突の保存要請があったものの、管理等の問題で実現しませんでした。
しかし、煙突の半円形の鋼板(外経約6.4m)一枚は、足立区立本宿小学校のすべり台に利用され残っています。その内側には「四本煙突記念」のプレート」1965年昭和40年1月があります。

四本煙突 方向によってなぜ 本数が変化するのでしょう?

4本の煙突が、右図のように、その中心を結んだ線が菱形をしており、短い方の中心距離が約11mで、煙突の直径が約6mなので、①の方向から見ると、4本に重なって太い1本の煙突に見えるわけです。
なお、煙突の高さは、約83.5mあります。

1本 2本 3本 4本
千住消防署屋上から 千住元宿小学校から 千住新橋上から 尾竹橋上から

南千住から 常磐線から


資料 東京電力足立支社様から提供していただきました
東京電力株式会社ホームページ
東京電力足立支社
おばけ煙突跡地に新社屋(足立よみうり新聞6月20日16:15配信)
 かつて、おばけ煙突があった地に建設中だった東京電力足立支社(松坂晴伸支社長)は20日、新社屋竣工披露式典を催した。鈴木恒年区長をはじめ、地元桜木町会長など多数の来賓が招かれた。建物は、地上6階、地下1階、延べ床面積7745・35平方メートル。全体がエコ・ビルディング仕様になっていて、畜熱式セントラル空調システム、省エネ照明、太陽光発電等が設備されている。1階には、70人収容の他目的ホールも設置され地域の人たちが利用できる。6月26日より営業
●新社屋=足立区千住桜木1-11-9 電話3888-9111(代)
※足立支社は、昭和2年に東京電灯千住出張所として発足、以来73年間地域に貢献してきた。おばけ煙突は、大正15年に建立され、昭和39年に取り壊されるまで「見る位置によって本数が変わる4本煙突」として長く足立の名所として親しまれた。
 

 その後のお化け煙突

帝京科学大学千住キャンパス2010年4スタート
お化け煙突モニュメント

Obake Entotsu Monument
「お化け煙突」は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になる、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
 千住火力発電所は、昭和39年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験してください。
説明版より




お化け煙突が出てくる 映画 本    
お化け煙突 リンク
映画 煙突の見える場所 (1953年)
映画 東京物語(1953年)

書籍 おばけ煙突のうた
書籍 お化け煙突の見える路地
書籍 おばけ煙突 
書籍 こちら葛飾区亀有公園前派出所
ウィキペディア 千住火力発電所
足立のちれきみん
ハスピー倶楽部




 ★2007年3月 驚くべき情報が 千住物語へやってきました 紹介いたします

ひょんなことで・・
名前:千住宿・榮一    日付:2月24日(土) 17時7分

お化け煙突のコーナー拝見しました。綺麗ではありませんが、わたしの撮った煙突の写真を送ります。
’64・10月のものです。今後とも宜しく・・。

1964年 昭和39年 お化け煙突 解体
  

 
写真提供:千住宿・榮一さん  (64・10月撮影)  135ミリの望遠レンズ




オバケエントツ 3年6組 笠井五郎様
千住物語 管理人jusinも お化け煙突の姿を うっすらと覚えていますが
千住の人たちが お化け煙突の存在 また解体をどう思っていらしていたのかはわかりません
この 笠井君の作文が その表現として もっとも いいのではないかと掲載させていただいたのですが
なんと 昭和の時代から40年もたった 平成19年 (2007)その笠井さまから お便りをいただきました

オバケエントツ・・・で、びっくり!!です。
名前:笠井五郎 日付:3月24日(土) 19時47分
はじめてお便りします。
「おばけ煙突」のページ懐かしくて目を皿のようにして読ませていただきました。すると、何てことでしょう。私が中学生の時に応募した作文が掲載されているではありませんか。
当時私は足立区立第3中学校(今は閉校されてありません)の3年生でした。オバケエントツが操業終了するに当たって、距離的に一番近い私達の学校が東電に指定されて、オバケエントツにまつわる感想作文を書くことになったと記憶しています。全校生徒が応募し、私は確か何位かに入賞して副賞に読書用蛍光スタンドをもらったことを鮮明に覚えています。43年前の作文に突如出会ったとき、一瞬息も出来ないくらいの衝撃でした。何度も読み返すうちに当時の風景や町並み、同級生の顔もおぼろげながらよみがえって、しばし昔の余韻に浸っておりました。
私の青春をよみがえらせてくださりお礼の言葉もありません。
一人息子も3中出身です。この4月から新社会人として就職します。早速息子にこの作文を読ませるつもりです。

リンクの件
現在私は中央大学の交友会組織の足立区支部のホームページ運営を任されています。貴方のページをぜひ私どものページにリンクさせていただきたくお願い申し上げます
リンク 中央大学の交友会組織の足立区支部のホームページ



千住桜木町 桜土手通り(墨提通り)
  明治19年、3千本の苗木を植栽。後、桜の名所となる。千住から江北~荒川提の五色桜は米国ワシントンに贈植。明治の末度重なる大洪水に、大正の初め荒川放水路開削が始まり、名勝桜土手(熊谷提は分断 大正13年特別天然記念物に指定。昭和にかけ地名のみを残し絶えて久しい。近年ワシントンの桜は里帰り桜となりまぼろしの桜を復活した土手に桜が植えられ、春は花が咲き 人がごったがえし、なじみぶかい土手でした

元宿堰稲荷神社
旧千住四本煙突守護社
   


四本煙突「足立今昔より」
どこかへでかけての帰り道、電車の窓から四本煙突が見え始めると、なぜかわが土地に帰ってきたように、ほっとしたもんですよ・・・・
映画「煙突の見える場所」で有名になった東京電力千住火力発電所の四本煙突は、大正15年1月米国から機械を買い入れ発電を開始、当時の金額で1500万円、ボイラー用として建設。発電量77500KW。日本最大の火力発電所の象徴であった。鋼板製で内部は、耐火煉瓦巻 高さ83.82m 内径項部4.57m 底部5.44m 外形項部4.81m 底部6.40m  重量 鋼板1.66t 煉瓦456t 計622t
煙突の位置は、対角線の長さ一方は62.2m 片方が10.5mと極端に押しつぶした菱形に配置されていたため 見る場所によって1本にも2本にもさらに3本にも見えるところから お化け煙突と呼ばれるようになり 長いあいだ下町の人々に親しまれ足立区民とくに千住に住む人にとって四季折々周辺の風景の変化の中に不思議な調和したたたずまいがあった。
建築以来丗有余年にかたり点をつく 巨大な名物施設が微動の昭和史に残した偉業は計りしれない時は移り昭和丗九年千住の空から姿は消え今1部分が、元宿小学校の遊具として保存されている


資料;さくら土手 千二 足立区千住第二小学校 創立九十周年記念副読本

江戸時代 河原の開拓し、その南側に水除提を築きました
これが、掃部新田と掃部提
(かもんづつみ)です

今の千寿第二小学校正門前にあたるところが、掃部提にあたります。ここは明治の終わりごろに桜をうえ桜土手と呼ばれるようになったところです。
牛田駅の近くから西新井橋の手前までの、高さ4m、長さ約2KMの土手です、現在の荒川の土手ができるまでは、土手といえば、この通りしかなかったので、千寿第二小学校は「土手の学校」と呼ばれていました。
春になると、土手のあちこちに、丸太を組み合わせ、よしずばりの茶店ができ、土手には、床がはられ、床下は、子供達のよい遊び場でした。茶店では、サイダーや、おだんご、ゆで玉子、のりまき、、いなりずしなどをうっていて、赤い前掛け姿の、お姉さん達が、「お休みなさいませ」などと、大声で呼びたてていました。子供達は、土手で 「すもう」をとったりすみれ、タンポポをつみながら遊んでいました
江北橋あたりまでつづき、春の花見、夏の夕涼み、秋の月見、など人々には、なじみぶかい土手でした。

現在の荒川の土手が完成したのは 昭和5年のことです





平成14年 2002年4月 千寿小学校と千寿第二小学校が統合します
明治7年4月 千住にはじめて、公立学校として千寿小学校ができました
明治42年11月11日 千寿第二尋常小学校ができました

関東大震災、東京大空襲、復興 大きな流れの中 およそ90年 元気な子ども達の声が校舎いっぱいに
ひびきわたりました。
児童数の減小により 東京都足立区立千寿第二小学校の名がピリオドを告げることになりました。
名は千寿小学校 場所は千二小

とても寂しいですね。時代の流れを感じます
そう 私 千住sinの母校は 「東京都足立区立千寿第二小学校」です